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自らの読書姿勢とその雑感

いろんな書籍を読んでいて、ふっと頭をよぎったことを取りとめもなく……。

時に、「クリスチャンなのに、〇〇さんの本を読んだの?」と言ったリアクションを受けることがあります。 その問いの真意は、人それぞれだろうとは思います。
まあ、共通するのは「未信者の文章を読むって、神を冒涜することにならないの?」と言った疑問なのかもしれません。

私の読書の姿勢としてあるのは、著者がキリスト教信仰を持っているかは問わないということです。
クリスチャンが有名作家の小説を好んだりするのは、普通にあることなのですが、敢えて上の一行を明言しておきます。

その読書スタイル(選書の姿勢)を明言することは、思慮の浅さを露呈することでもあります。
少なくとも、私の場合は。

と申しますのも、一つには次の思いが強くあるからです。
クリスチャンを自称しながら「“聖書から逸脱”していない?」という筆者とその著作が多いということです。
別に私は神学者でなければ、牧師ですらもありません。教義に「明るくない部類」だという自覚は一応あります。
無知ゆえの選書を時にしている自覚もあります。ただ、「この聖書的な大筋は私でも理解に導かれている」という点をも外れた、かつ、私見の表明が多すぎるとしか思えぬ「クリスチャン著作」が多い印象なのです。

具体的な書名や著者は、敢えてここでは挙げません。
印象と現実(明確に聖書逸脱をしている現実という意味合い)とを整理する必要があります。
熟慮してここまで書いているわけではない、そうした「浅さ」は厳としてありますから。

言い方(見方)を変えましょうか。
宣教の思い熱すぎるが故に、私見を加えすぎる事例。
伝わらないことを恐れるあまり、差し引いて聖書を語る事例。
読んでそのまま「然り、アーメン」とは言えない場合があるということです。
間違いを一ミリも私が赦さない、ということではありません。その思いは明確な誤りです。
著作の責任という点で、重大だなと受け止めざるを得ないことがあるのです。これを申しております。

要は、信仰書と謳っていても、そのまま学びとして内容を吸収できるとは限らないのです。
そうした傾向のものは、意図して避ける原則を貫いているつもりということです。
(私が何か、この道(キリスト教)について書くときも、「到達点からは無理な背伸びをしないで記す」ことを意識しています。)

キリスト教関連書籍についての思いは、ざっと以上です。

次に、著者が「クリスチャンではない」著者の作に触れる時のことをば。

はじめに書いてしまうと、「反キリストを標榜する」方の書籍でも、何がしかの必要があると思えば、「資料として読む」ことがあるということ。
あるキリスト教的立場(宗派・各神学等)への批判を超えて、明確に聖書否定をする方の書籍でも、場合によっては目を通すことがあります。

もちろん、「浅薄」な私です。
そうした本を読むことで、信仰に悪影響が起きうることは想定できます。
「祈りながら読んだら大丈夫」と、脳天気にしていて済む話でもありません。

にもかかわらず、明確にして構えるに、キリスト教から見た場合の「異教」やそうした影響にある考えを、できるだけ正確に理解したいと思うこと。
日々触れる、多くの方の色々な声、思い、願い。その背景。
一人ひとり、一つ一つに、誠実に対応したいという思いが、一番強いかもしれません。そのための読書という意味合い。

また、自称信仰者の文章から浮かぶ声に比べて、「これ、聖書的というか、そうだな」と思える、クリスチャンでは無い筆者の声に触れられることが、しばしばあります。
もしかしたら、ある点では「聖書の影響を受けて」その方が書いていらっしゃるかもしれませんね。

さてさて。
聖書を基軸にして生きようとしてはいる、そんな私です(地上の人生で完成はしませんが)。
聖書以外も、大まかに上記雑文の姿勢で読みます。
反面教師的にも、部分的「正解」であったとしても、何がしかの発見や学び、自戒自省の材料を得られることが、とても多くあるからです。

基本、読むべきは聖書という立場です。
しかし、聖書理解とその実践に、助けとなる読書というのもあります。
講解書や神学書に限らない、そんな「助け」が個別の事例としてあるんだということです。

合わせて、世界(生命も無機物も……広く)を見るため、解像度を上げるためにも読む、という姿勢もあります。
クリスチャンなので、「創造主がすべてをつくられた」というスタンスだから、とも言い換えられます。
せっかくの色とりどりなこの世界を、ちょっとも知らずにいるのが惜しいという気持ち、でもあるでしょうか。

稀に、「聖書以外読まない」と言った声に触れます。
ある意味ではまあ、書物のなかの書物なので、理解はできます。
でも、それではあまりに勿体無いな?と思うのが一つ。
聖書をそもそもそれだけ深く正しく(神の意図通りに)理解できていたり、この世界の何から何まで理解できているわけ無いでしょ、という思うのも一つ。
これ以上踏み込んで書くと「聖書は何を目的に書かれた書物なのか」に話が至り、今回の記事の意図企図本筋からは外れていく(信仰上不可欠な点ではありますが)ので、割愛します。

他愛のない、空疎を展開した自覚はあります。
そろそろ、締めましょうか。

「生きているから、読む」
読むという行為が、「ネット経由を含め、日々向き合う一人ひとりにつながっていくものだ」という、確信めいた思いを持っています。

単に、宣教対象として見ている、ということでは決してありません。
欲張りかもしれませんが、「あなた」を、ひいては「私自身」も、より深く、できれば正確に理解していきたいのです。
(嫌がる方に対して、過剰に踏み込むことは避けたいですが)

出発点にして、帰結していくのは、「愛のうちに生きていく(生かされていく)こと」だと思っています。
それがあまりに不十分な自分や、悲しい世界の現実が存在するからこそ、向き合い、理解し、解決を求めて「読む」のです。

「博愛主義」とはまるで違いますが、「愛したいから読む」という一言に、もしかしたら落とし込めるかなと思っています。
そこに「筆者がクリスチャンか否か」という線引きをしないのです。

留意する点を、一つ挙げておくならば……。
読書体験の紹介をするとき、相手が「聞いてつまずく」可能性を感じたなら、その筆者の名前や書名は伝えないということ、でしょうか。

今回もお読みいただき、ありがとうございます。
ご指導のメッセージを頂けたら……(じゃあなぜnoteで書かなかったし)と思いつつ。
また次回、お目にかかります。

(2026-01-25)